御祭神・由緒 | 鎌倉市にある荏柄(えがら)天神社

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荏柄天神社

荏柄天神社 御祭神・由緒

御祭神・由緒

御祭神

菅原道真公

菅原道真公 (すがわら の みちざねこう)
承和12年(845)-延喜3年(903)

道真公は学問の家柄である菅原家に生まれました。父の是善(これよし)も祖父の清公(きよきみ)も優れた学者であり、その血統を継いだ道真公が幼少の頃から非凡な学才を示されたのも道理でありましょう。11歳で初めて漢詩を作り、26歳の時に当時の最難関国家試験である方略試(ほうりゃくし)に合格されています。

道真公の文学的な業績としては『菅家文章』(かんけもんぞう)に見られる漢詩文の傑作をものされたことが挙げられます。一方政治家としての道真公は道理を重んじ、当時崩れつつあった律令制度のほころびを正そうと努められました。長年に渡って行われた遣唐使の廃止を具申したことは有名です。

こうした業績や誠実な人柄が宇多上皇の評価されるところとなり、道真公はその家柄からすると破格の右大臣の位に任ぜられ、国政を委ねられるようになりました。しかしこれを快く思わない左大臣藤原時平の一派の策謀により、大宰権帥(だざいごんのそつ・・・名目のみの役職)に落とされ九州大宰府に流されてしまいました。元々体がご丈夫ではなかったことに加えて心労も重なり、程なく都へ戻られることなく亡くなられます。

道真公の死後都に天災が続き、藤原時平をはじめとする反道真公派の人々が不思議な最期を遂げることが相次いだので、これが道真公のご無念のためと考えられるようになり、朝野から神として祀られるようになりました。そもそも天神様(てんじんさま)というのは、雷雨をも操ってしまうほど力の強い神様という意味の尊称なのです。

やがて時代が下るとともに、学問をする人や正直な人を助ける神様として広く信仰を集められるようになりました。

 

由緒

荏柄天神社 由緒

○略年表

長治元年(1104年)晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建ててその画像を納め祀った縁起に始まります。関東を中心に各地に分社をもち、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と共に三古天神社と称される古来の名社です。

古くは荏柄山天満宮とも称されました。荏柄の社号は、天平7年(735年)の『相模国封戸租交易帳』などに見える「荏草郷」の”えがや”が後に転じて”えがら”となり、「荏柄」と表記されたものと考えられています。

治承4年(1180年)鎌倉大蔵の地に幕府を開いた源頼朝公は幕府の鬼門に位置する当社を崇敬し、更めて社殿を造立されました。以後、歴代の将軍家を始め、鎌倉幕府の尊社として篤く崇敬され、「吾妻鏡」には二代将軍頼家が大江広元を奉幣使として菅公300年忌を盛大に執行された事など、社名がしばしば記されております。

この様に中世より特に崇敬された当社は、足利、北条、豊臣、徳川の各氏によっても守られ、さまざまな寄進を受けて近世にいたりました。現在では学問の神、正直者、努力を重ねるものを助ける神として年間多くの方々が参拝され、社殿はいつも「祈願」「お礼」の絵馬で覆われています。