荏柄天神社 略年表
元 号 | 西暦 | 事 績 |
平安時代 | ||
長治 元 | 1104 | 八月、雷雨とともに、雲上に立つ黒い束帯姿の天神画像が降臨したことに始まると伝わる |
治承 四 |
1180 |
源頼朝、鎌倉に入る。荏柄社を大蔵幕府の鬼門の守護神とする |
鎌倉時代 | ||
建仁 二 |
1202 |
九月、荏柄社祭。大江広元が奉幣使となる |
三 | 1203 | 九月、北条時政、荏柄社前において天野蓮景、新田忠常らに比企能員追伐を命じる |
建保 元 | 1213 | 二月、囚人渋河兼守、十首の詠歌を荏柄社に奉じる。将軍源実朝、感じて罪を許す |
承久頃 | 「北野天神御伝并御託宣」成立 | |
寛元 二 | 1244 | 七月、落合泰宗等、密通の有無を起請のうえ、荏柄社に7日間参籠。無罪となる |
弘長 元 | 1261 | 五月、荏柄社神主 平政泰、木造天神坐像 造立 |
三 | 1263 | 十二月、荏柄社前失火。余災が塔辻まで至った |
弘安 三 | 1280 | 十月、荏柄社並びに尼寺、二階堂相州館以下消失 |
正応 二 | 1289 | 「とはずかたり」の作者二条、参詣 |
延慶 三 | 1310 | 十一月、鎌倉大火。荏柄社焼失 |
応長 元 | 1311 | 肥前国の御家人 後藤幸明、所領争いの勝訴を祈願して荏柄社に参籠。勝訴を得るという |
元応 元 | 1319 | 藤原行長、天神縁起制作。荏柄社に奉納 |
某年 |
十一月、大江広元の子孫で関東評定衆の長井貞秀、 鶴岡八幡宮、荏柄社法楽のため心経を行うことを称名寺明忍に依頼 |
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室町時代 | ||
宝徳 三 | 1451 | 九月、第五代鎌倉公方 足利成利、荏柄社に国家安寧の祈祷を命じる |
享徳 三 | 1454 |
「鎌倉年中行事」成立。鎌倉公方は正月二十三日、二十五日荏柄社参詣。 二十五日は殿中で千句の催しあり。また、二月二十三日朝より二十五日まで荏柄社に参籠 |
四 | 1455 | 六月、今川範忠、鎌倉乱入。この時、荏柄社の社壇を破り天神の神体を駿州へ乱取 |
文明 八 | 1476 |
万里集九により「江戸城静勝軒詩序並江亭記」が作成される 。 (太田道灌築城当時の江戸城に関する貴重資料) |
長享 元 | 1487 | 荏柄社神体、駿河より自ら還座。菅原道真公自筆の画像という |
明応 三 | 1494 | 上杉定正没。その書状に「荏柄小別当」とあり、その存在が知られる |
天文 十三 | 1544 | 十二月、社殿再興造営のため、北条氏康が関所を寄進。関銭徴収の法を定める |
十五 | 1546 | 東大寺大勧進 了源、某氏を一乗院に補任する |
永禄 二 | 1559 | 二月、「小田原衆所領役帳」なる。荏柄社領は二十一貫百文と記されている |
四 | 1561 | 里美義弘、荏柄社の関所を破り、小田原に入るという |
安土桃山時代 | ||
天正十八 | 1590 |
四月、豊臣秀吉、荏柄社・覚園寺・瑞泉寺・宝戒寺・浄光明寺に禁制を下す ※『禁制』 … 大名などの権力者が軍勢による略奪などの禁止行為を記したもの |
〃 | 七月、豊臣秀吉参詣。造営の沙汰あり | |
十九 | 1591 |
十一月、徳川家康、社領十九貫二百文の御朱印を賜う。 また、修復等を命じる |
江戸時代 | ||
慶長 十二 | 1607 | 滝川下総守雄利、東西の脇殿(老松殿・紅梅殿) を修復 |
元和 七 | 1621 | 徳川秀忠参詣 |
八 | 1622 |
徳川秀忠、鶴岡八幡宮造営に伴い、若宮旧社殿を荏柄社に移す。 また、金子・材木を下して本社・末社まで悉く造営 |
寛永 元 | 1624 | 鶴岡八幡宮造営に併せ荏柄社修理。鶴岡八幡宮の古材を使用する |
寛文 八 | 1668 |
徳川家綱、鶴岡八幡宮修復に伴い金子・材木数百本を荏柄社に下し、本社・末社・別当坊修理 |
延宝 二 | 1674 | 五月、水戸藩主 徳川光圀 荏柄社参詣。資料歴覧 |
元禄 十 | 1697 | 鶴岡八幡宮修復の際、先規のとおり残木・古材を荏柄社に下して社殿を残らず修理 |
享保 七 | 1722 | 別当 一乗院、本地仏十一面観音を江戸芝明神社地において開帳 |
十九 | 1734 | 九月、「鎌倉荏柄山天神社由緒書」が記される |
元文 元 | 1736 | 鶴岡八幡宮修復の際、先規のとおり残木・古材を荏柄社に下して修理 |
宝暦 三 | 1753 | 鶴岡八幡宮修復の際、先規のとおり残木・古材を荏柄社に下して修理 |
明和 五 | 1768 | 五月、別当一乗院住持意辨、石鳥居を再興 |
天明 元 | 1781 | 鶴岡八幡宮修復の際、先規のとおり残木・古材を荏柄社に下して修理 |
寛政 三 | 1791 |
鶴岡八幡宮供僧増福院快雅(後秀雄)、荏柄社の別当一乗院兼任。 翌年 天神画像修復 |
八 | 1796 | 春、増福院快雅 一乗院へ移住 |
文政 七 | 1824 | 一乗院住持慈龍、菅公御札の版木作成。また、参道に庚申塔建立 |
十一 | 1828 | 鶴岡八幡宮及び諸堂の焼失後の再建に伴う残木・古木を荏柄社に下して社殿を修復 |
天保 三 | 1832 | 「荏柄天神社領高書上帳」が作られる |
明治時代~現代 | ||
明治 元 | 1868 | 神仏分離令発布。別当一乗院と分離 |
六 | 1873 |
二階堂村鎮守の熊野神社を合祀し村社となる(熊野神社は現在の『熊野権現社』の前身) |
十九 | 1886 |
八月、社殿修繕を発起。十一月、「御普請諸色積り書帳」制作 |
三六 | 1903 | 「菅公一千年祭記念碑」建立 |
大正 十二 | 1923 | 九月、関東大震災により半壊 |
昭和 七 | 1932 | 十一月、鶴岡八幡宮に本宮旧仮殿無償譲渡を願出る |
十四 | 1939 | 正遷座のため、鶴岡八幡宮に助謹奉仕を依頼 |
四六 | 1971 | 三月、境内に清水崑画、川端康成書「かっぱ筆塚」建立 |
平成 元 | 1989 | 十月、境内に横山隆一ら漫画家有志により「絵筆塚」建立 |
十六 | 2004 | 十月、御鎮座九百年祭行われる |